「モノとココロのメンテナンス」美術作家・湊 七雄さん【ふーぽコラム】

「モノとココロのメンテナンス」美術作家・湊 七雄さん【ふーぽコラム】

福井にゆかりがあったりなかったりする、いろいろな書き手がよしなしごとを書き綴る「ふーぽコラム」のコーナー。

 

今回は、福井大学教育学部教授であり美術作家の湊 七雄(みなとしちお)さんです。


美術作家

湊 七雄(みなとしちお)
1972年、三重県生まれ。
ベルギー・ゲント王立美術アカデミーにて修士号取得。
ノントキシック版画技法研究者。2019年より福井大学教育学部教授。
国内外での個展・グループ展多数

 

 

モノとココロのメンテナンス

この世で最も完成された乗り物は自転車だと信じている。

機能的で美しく環境にも優しくて、メンテナンスをすれば長く使い続けられる。

 

私は自他共に認めるインドア派だが、学生時代はサイクリング部で、週末になるとピカピカに磨き上げた自慢のマウンテンバイクで遠出した。

このところ本格的なサイクリングからは遠ざかっているが、自転車愛は今も変わらない。


つい先日、小5の次男の自転車がいよいよ小さくなってきたので、買い換えようという話になった。折角ならと大型店に出向いたが、「これ! 」というのが見つからない。どれも作りが華奢で質もイマイチなのだ。

それもそのはず、店員さんによると、近頃のシティサイクルは耐用年数を3年程度と想定し製造されているらしい。

「たったの3年? 」と、驚きを隠せなかった。そして、良いものを長く大切に使うという日本の良き伝統が、商業・消費主義の波に飲まれて行くような居心地の悪さを感じた。


アートの分野に「手を動かしながら考える」という言葉がある。これは日本だけでなく欧米でもよく耳にする表現で、洋の東西を問わず、創造性を高めるために有効な手立てとされてきたようだ。

 

自身の作品制作を振り返ると、確かに手を動かすことから始めているように思う。

白い紙に向かい、「この画面に何が生まれるのだろうか」と、期待を込めて紙の表面をそっと撫でてみる。手の軌跡がそこに残り、形や空間へと発展していく。手の動きに合わせて頭と心が動きだすことを実感できる瞬間だ。


しかし当然のことながら、いつもこのように首尾よく制作が進む訳ではない。全く手が動かない時もあれば、スランプもある。そんな行き詰まりの時に自分を救ってくれるのが「メンテナンス」だ。

絵筆、彫刻刀、作業台や版画プレス機など、いつもお世話になっている道具や器具たちに感謝の気持ちを込めてメンテナンスをする。作品制作が進まなくても、心が穏やかになり、ふと良いアイデアが浮かぶこともある。
 

メンテナンスの語源はラテン語で、「main(手)でtain(保つ)」という意味だが、「自分の手で心の状態を最良に保つ」という意味合いもあるのではと考えている。メンテナンスフリーの便利な使い捨てが蔓延する時代だが、幸いにも、ここ福井には本物志向の伝統と精神が息づいている。

 

手間をかけ愛でることの意味を再確認しながら、ぜひとも長く付き合えるモノを選びたいと思う。

 

 

見る見る見える

コロナ禍でお籠り生活となっていた今年5月、一念発起して自宅アトリエの大片付けに取り掛かった。ところが、「片付けあるある」の典型だが、長年にわたり未整理のままとなっていた写真の箱を開けたが最後、片付けの手は早々止まってしまった。古い紙焼き写真を見返し、しばしノスタルジックな気分に浸る。

そこで、一人目の子どもを身ごもった頃の妻の姿を見つけた。

一枚の写真から昔の記憶が鮮明に蘇ってくる。
 

当時の住まいはベルギーの首都ブリュッセルで、日常の交通手段はトラム(路面電車)がメインだった。ある朝トラム停でふと周りを見渡すと、あれれ?  何かが違う。

 

大きなお腹の妊婦さんやベビーカーを引く人がやけに多いのだ。古くなった靴を新調したいと考えていると、つい他人の足元に目が行ってしまうのと似た状況かもしれないが、父親になる自覚はまだなかったにも関わらず、無意識のうちに赤ちゃんを迎える準備をし始めていたのだろう。

それは、いつもの風景が一転した瞬間であり、自分自身が子を持つ「当事者」になった瞬間でもあった。


当事者になると様々な発見があるもので、それまで見えていなかったものが見る見る見えるようになる。もちろん、それに付随して面倒なことや心配事も増えるが、世界の見え方が更新されていく快感に比べると些細なことかもしれない。

同様の体験はいくつかあるが、福井市内に自宅を構えた数年後、町内会長を引き受けた際の経験も印象深かった。

それまでは、自分自身がよそ者という感じで、「住んでいる」という実感が薄かったが、町内の様々な行事を通して、それまで無色だった街が色味を帯び「自分の街」になっていく感覚を覚えた。


近年、アートの分野では、参加型のアートが増えている。

通常は作品を制作する人と観る人の役割が分かれているが、参加型アートでは、鑑賞者も制作プロセスに関わることで作品やアートプロジェクトを成立させる。

例えるならば、料理人と食べる人が別のレストランスタイルではなく、みんなで一緒に賑やかに料理を作って食べるバーベキューやキャンプのようなイメージだ。それぞれが与えられるだけの立場から抜け出し文化創造の一端を担うことで、表現することのハードルがグンと下がるはずだ。

 

アートを通して覗き見る新しい世界、一度ハマったら抜け出せないかも! 

 

 

ある程度ってどの程度? 

経緯はさておき、金沢21世紀美術館にてアール・ブリュットの美術展を主催した。その関連企画として国際シンポジウムも開催することになり、アート分野に造詣の深い通訳が必要となった。

しかし、通訳探しが思いのほか難航し困り果てていたところ、偶然が重なり、スウェーデン留学時代の知人に辿り着いた。奇跡的な縁で20数年ぶりの再会を果たし、彼の見事な通訳でシンポジウムは成功裏に終わった。彼の通訳センスは抜群で、言葉の繊細なニュアンスや心の声までも丁寧に拾い上げてくれる。

そのシンポジウム前日。

夕食会で外国語習得やマルチリンガルの話題になった。ヨーロッパでは、母国語の他に2、3カ国語を操るマルチリンガルはさほど珍しくはない。私自身も数カ国語を話すので一応マルチリンガルということになるが、彼のレベルには到底及ばず、万年「ある程度」話せる域から抜け出せない。

 

「それなりに会話出来るようになったその先が長いよね」「そもそも、ある程度ってどの程度?」と、楽しい会話で夜は更けていった。

Photo ©Rob Walbers / Courtesy of Arts Flanders Japan

 

子どもの頃から私は「器用貧乏」と言われて育った。あれこれ気が多く、手先も器用なので自分でできることは何でもやりたくなってしまうのだ。

サクッとコツを掴み、そこそこ出来るようになるまでは比較的早いが、その先が長い。果てしなく長いのだ。

 

例えば、身近でありながら扱いが特に難しいと感じるのがカメラだ。

高度成長期に写真スタジオに勤めていた母から、写真家という職業がいかに崇高であるかを繰り返し聞かされたことも影響してか、「その時しかない瞬間を切り取る」プロの研ぎ澄まされた勘やセンスは見えない努力の結晶であり、決して立ち入ることの出来ない聖域のように感じる。

 

「神は細部に宿る」

Photo ©Rob Walbers / Courtesy of Arts Flanders Japan

 

アートに限らず、プロの世界とは「ある程度」の先にある「あとちょっと」で成り立っているのかな? なんて考えが浮かぶ。

 

「あとちょっと」をいかに極めるか。

 

わずかの違いは見過ごしやすいが、私たちの生活の質や精神的豊かさは、この「あとちょっと」で支えられていることが多いと感じる。日常生活において、私たちはどうしても合理性や利便性を追求し、この「あとちょっと」を疎かにしがちだ。

 

新しい年を迎えるにあたり、物事のちょっとした違いを大切に見逃さないよう心がけたい。

 

 

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※本記事の情報は取材時点のものであり、情報の正確性を保証するものではございません。最新情報はお電話等で直接取材先へご確認ください。

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