長く乗ってきた車を、手放すことにした。
家族で出かけた思い出が詰まった一台だ。
迷いもあったけれど、名古屋に暮らす娘が「大好きな車だから私が乗りたい」と言ってくれて、気持ちはすっと決まった。
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人生で最初に買った車は小さなスバルの360cc。
僕が生まれる前に作られた、まるでおもちゃのような軽自動車だった。
大学時代、通りすがりにそれを見つけて「こういうのに乗りたいなあ」と、当時まだ彼女だった妻にぽつりと話した。
すると彼女は、本当に持ち主を見つけて交渉し、僕のもとへ届けてくれた。
(行動力やばすぎない?)
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その車にキャンプ道具を詰め込んで、山へ海へと走った。
その様子が雑誌編集部の目に留まり、取材されるようになり、それがきっかけで出版の道へと進んだ。
まさに人生を運んでくれた車だった。
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それからいろいろな車に乗ってきた。
古くて気むずかしい車ばかりを選ぶ癖があって、トラブルにもよく見舞われた。
銀座の交差点のど真ん中で立ち往生した車を押したこともある。
福井へ帰省するとき、オーバーヒートしかけたラジエーターにヤカンで水を注ぎながらなんとか帰ったこともあった。
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そんな車たちとの時間は、いま思えばどれも武勇伝というか笑い話。
保護犬だった福を迎えてからは、家族みんなで犬連れキャンプにも出かけた。
あのにぎやかな旅も、たしかにこの車が連れていってくれた。
ズボラで洗車しない僕に変わって、福井に帰るたび父親が寒い日も暑い日も黙々と水をかけてスポンジで磨いてくれたなあ。
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これまで乗り継いだどの車も、手放すときは下取りには出さず、大切に乗ってくれる誰かに譲ってきた。
今回も名古屋に住む娘が引き継いでくれることになった。
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ただカーシェアしか運転経験がない娘が、いきなり東京から名古屋までロングドライブするのは少し心配で「大丈夫かな…」と内心ハラハラしていたところ、
「あ、ちょっと紹介したい人がいるから一緒に行っていい?」
とLINEが届いた。
え、え? そういうこと?
…察した。
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車を娘に”嫁がせる”つもりだったのに、まさか娘のほうまで、そんな展開になるとは。
なんだか人生、想像していたより早く動いていく。
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途端に車のことより、「紹介したい人」のほうが気になりだした。
どんな顔して出迎えよう。
ランチはどうする? ウーバーイーツ?
いや、デパ地下でお寿司でも買ってくる?
急いで掃除して、床も磨いて…
忘れてた! 車もピカピカにしなきゃ。
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そしてチャイムが鳴り、いよいよドアが開く—――。
僕の人生を運んでくれたこの車が、これからの娘の人生を、そしてその隣にいる誰かの未来を、また静かに運んでいくのかもしれない。