【第二巻】福井にある城「福井城」について徹底解説!徳川ゆかりのお城を巡ります

【第二巻】福井にある城「福井城」について徹底解説!徳川ゆかりのお城を巡ります

こんにちは!

3月に成人を迎えました、酒井大那です!

もう私も20歳に。今後もいろんなことにチャレンジして頑張っていきます!

 

おっと、20といえば、ここで「城トリビア」

第二次世界大戦まで、日本の城のうち、20城の天守が現存していたそうです。

現在は、坂井市丸岡城(天守:重要文化財)を含めて12城の天守が現存しています。

今よりも、多くの天守を眺めることができたのですねぇ。

 

ところで、前回の第一巻は読んでいただけましたでしょうか?

「福井城」を徹底解説!歴史や築城理由から魅力を紹介します!

 

第一巻でご紹介したのは、「徳川家の肝いりで築城された福井城の歴史」や、「何故福井城が建てられることになったのか」、という点について。

◆福井城(北庄城)は北陸最大の規模をもつ城!
◆68万石の親藩(徳川家と関係の深い藩のこと)として相応しい城!

というポイントを紹介させていただきました。

 

まだご覧になっていない方は、第一巻を読んでいただければ、何故福井藩が親藩として重要視されたのか、福井城のような大きな規模の城が作られたのかが、知っていただけるかと思います。

 

第二巻も、引き続き福井城についてご紹介!

 

今回は「福井城の構造」と、明治以降の福井城が歩んだ「城址として歴史」から福井城の魅力をご紹介していきますよ! 

 

福井城の建設は、全国の大名を巻き込んだ一大プロジェクトだった?

第一巻でもお話ししましたが、福井城は徳川家康の命を受けてつくられた城です。

 

徳川家の敵、豊臣家に味方した前田家が治める加賀藩を見張るための城!

加賀藩の金沢城に負けない城!

 

そんな城として築城されました。

 

一説によると、福井城の設計には徳川家康自身も携わったとかなんとか。

 

幕府の命を受けて作られた福井城。

家康自らが携わるなんて、福井城への気合いの入り具合がうかがえます・・・!

 

1961年に出版された、福井藩で行われた様々な公共事業などを記録した『国事叢記』には、 

本丸や二の丸などの工事では、全国各地の藩から人手があつめられ、諸大名たちが協力した、なんていう風に書いてあります。

このように、江戸幕府が全国の諸大名に命令して土木工事を行わせることを「天下普請(てんかぶしん)と言います。

 

とまぁ、福井城の築城というのは、全国の大名を総動員して行われた一大プロジェクトだったわけです。

ちなみに、百万石の加賀藩前田家も福井城の土木工事の手伝いをさせられています。

 

 

貴重な資料から見る、福井城の構造!


そんな福井城の「縄張※」は、輪郭式という多くの城郭で見られる典型的な形です。

 

※「縄張(なわばり)」とは
城の縄張とは、城の設計のことを指し、平らなスペースである曲輪(城の中にある区画のこと)をどのように配置して、石垣や土塁、堀をどのように廻らせるのかなどを決めるもので、築城の際の最重要ポイントです。

 

 

輪郭式は、本丸を中心に、二ノ丸と三ノ丸という順に内から外へ囲んでいく方式であり、同心円状となったり、渦巻き状になったりすることもあります。

余談ですが、徳川の命を受けて作られた城は、多くの場合、藤堂高虎(とうどうたかとら)という築城名人の武将が関わっているそうです。

例えば駿府城(静岡県)、高田城(新潟)、丹波篠山城(兵庫県)、津城(三重県)などの築城に関わったとされています。

 

福井城は同じく徳川の肝いりでつくられた城であるためか、それらの城の縄張に酷似しているのです!

見比べてみると、いろんな発見がありますよ!

 

お城の見どころ!福井城の本丸と天守を見てみましょう!

続いて、福井城の縄張りの中心、本丸天守を見ていきましょう。

本丸

御本丸指図 天保1年 (松平文庫 福井県文書館保管)

 

 

福井城の本丸は四角形のかたちを基本としています。

⽯垣は、ところどころで屏⾵のように折れ曲がっています

これを文字通り「屏風折」といい、まっすぐではなく折れ曲がらせることで、城に攻めてきた敵をいろんな角度から迎え撃て、防御の面で有利であったと言われています。

 

堀には「内堀」「外堀」などの呼び方があって、本丸に近いものを内堀遠いものを外堀と言います。

福井城では、内堀や外堀を巧妙に配置したり、石垣と同じようにところどころ折れ曲がらせたりして、城の防御力を高めていました。

 

福井城旧景 御本丸(福井市郷土歴史博物館) 御殿が描かれた絵図

 

ちなみに本丸には「本丸御殿」という建物があり、今でいう役所のように機能して政治の中心となっていた「藩庁」と、藩主の居所として利用されていました。

本丸には現代でも、お役所である福井県庁が建っています。かつての歴史が現代にも受け継いでいるようで、おもしろいですね。

 

本丸御殿の一部は、福井市足羽5丁目にある臨済宗妙心寺派 瑞源寺に移築されており、県の重要文化財に指定されています。当時の御殿の雰囲気を体感できますよ。

福居御城下絵図 貞享2年(松平文庫 福井県文書館保管)


また、城の南東には、幅が百間(ひゃっけん)とも言われる巨大な堀(幅およそ100m)があり、さらに足羽川と荒川が城の防御に活用されました。

荒川は現在、幅の狭い河川となっていますが、江戸時代には川沿いに高い土塁を構えた、幅の広い川だったそうです。

 

 

また、幕末に近づくと、東三の丸(現在の福井中央公園の近く)藩主の居所である「御座所(ござしょ)が設けられました。

 

藩主が変わると、本丸に居所が戻ったりしましたが、あの有名な福井藩16代藩主の松平春嶽は、本丸とここ御座所をよく往来していました。

藩主がよく利用するとあってか、本丸へ行き来する廊下橋は手の込んだ豪華な設計となったそうです(「御廊下橋」と呼ばれ、現在復元されています)。

 

現在、御座所のあったスペースには、石や芝でかつての建物等の位置が分かるように整備され、堀の一部が復元された箇所や憩いの場があります。

そこからみる本丸西面の高石垣が大変美しいですよ。

 

天守

 

次に天守天守台天守を築く土台)を見てみましょう

 

福井城の天守台は石垣を積んでつくられ、その上に四重五階の天守が建てられていました。

 

天守の高さは、現在の県庁の八分目ほどの高さがあったそうです。天守だけでも約28m。

天守台も含めると、37mほどの高さだったそうです。

さぞかし壮大な天守だったのでしょう!

 

 

現在残っている天守台をよくみると、積まれた石が歪んでいるところがあります。

実はこれ、福井大震災によって生まれた歪み。

福井城の石垣や天守台は、昔に起きた福井大震災の傷跡を現代に残しているのです。

今後もこの状態で、後世に残っていったらいいなと考えています。

 

こちらの絵図では、天守の階層の平面図や、天守台のかたちや寸法が記されています。

先ほども書きましたが、福井城の天守は37mもの高さを誇る勇壮な建物でした。

 

しかし、この天守は1669年(寛文9年)の火事で焼失してしまい、その後再建されることはなく、現在に至っています。

ですので、この絵図は今ではもう見ることができない福井城の天守を眺められる貴重なものなのです。

 

明治時代以降の福井城の歴史

 

最後に、明治時代以降の福井城の歴史についてご紹介しましょう。

 

江戸幕府が倒れたあと、福井城は明治6年(1873)の廃城令によって廃城となりました。

この廃城令では、全国各地の城の多くが取り壊しとなりました。

廃城令が出されたあと、使われなくなった福井城は城跡として新たな歴史をスタートさせ、本丸の中には福井県庁舎、県警察本部、県議事堂などの公共施設が建てられていきます。

その他、福井城の敷地内では軍の施設や学校も建てられ、公園としても利用されました。

 

そうやって利用されてきた福井城址は、現在も福井の町中に残り、かつての歴史を今につたえる遺産として、多くの人に愛されています。

 

 

全国の他の廃城となった城も、似たような境遇となりました。

例えば、島根県では松江城の城址の中に県庁が置かれています。

また、お隣の石川県にある金沢城では旧帝国陸軍第9師団の庁舎が置かれました。

滋賀県の彦根城には学校があります。現在でもその学校が存在しています。登下校、学校活動においても城を味わるなんて、うらやましい・・・。

 

今回の第二巻、いかがだったでしょうか?

今は失われてしまった本丸など福井城の城郭や天守の様子が、少し垣間見えたのではないでしょうか?

 

次回の第三巻は、またまた福井城っ!(笑

発掘調査の成果や石垣から、徳川の城・福井城のあまり知られていない魅力をご紹介します。

 

駅前(ハピリン西側)、中央公園、山里口御門での調査に絞って、福井城を考古学的な観点から読み解きます。また、地元の人も知らない、観光パンフレットにも記載されていない、隠された石垣もご紹介します。

お楽しみに。

 

東日本大震災から10年が経過しました。
決して風化させてはいけない。
震災の教訓を大切にしましょう。
今一度、災害の備えの確認を。
2021年3月11日14時46分、震災により犠牲となられたすべての方々に対し哀悼の意を表すべく、黙祷を捧げさせていただきました。

 

\だいなのプロフィール/

酒井 大那(さかい だいな)

「歴史に触れ合う、歴史を読み解くことができる歴史的文化遺産こそ、城跡!」

平成13年、福井市生まれ。考古学専攻の大学生(主な専門は日本考古学・城郭史)。
発掘調査から出土したモノを通じて、過去人類の文化や過去の社会を研究している。
これまで訪れた城跡、城郭は500カ所以上。

「福井城を守る会」代表(2021年4月活動開始)、若狭国吉城歴史資料館宣伝担当。城郭談話会・石川考古学研究会 等に所属する。

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