では、なぜ福井城は築城されたのでしょうか。
。。。その前になぜこの地に福井城、その前身といえる北庄城が築城されたのでしょうか。
私は現在、朝倉氏時代も含めて考えております。
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話を戻しまして、私は福井城がなぜ築城されたのかについて2通りの策があったと考えています。
【1つ目】徳川家康対豊臣秀頼との決戦のため、つまりは大坂包囲網の1つの城として築城された。
関ケ原の戦い後、日本列島に戦争がやみ、世の中が治まるという偃武(えんぶ)が訪れたわけではありません。
未だ大坂には豊臣秀頼が君臨しています。
豊臣方に味方するのか、徳川方に味方するのか。
全国の大名が困惑し、その困惑が戦国時代のなかで最大の軍事的緊張を生んだと考えられています。
前まで、味方であった大名が、いきなり敵になることも!
その大坂の陣の決着後、ようやく応仁の乱以来、約150年ぶりに元和偃武(げんなえんぶ)が訪れました。
豊臣の大坂城を囲むように、例えば西国に目を向ける姫路城や重要な街道が側を通る彦根城などがあります。福井城の場合、北国街道が通りますね。
【2つ目】北国の守備(加賀前田家に対する城)です。
1つ目と少し被る点もありますが、大坂の陣後も外様大名である加賀前田家が存在しています。
いつ反旗を翻すか分からないため、北国の守備は必要でした。
江戸時代に描かれた、福井の城郭の全体図を見ると、加賀方面に加賀口御門が置かれ、ここだけ馬出という城郭構造をしています。
江戸時代の城郭にはあまり見られない構造で、戦が日常茶飯事であった戦国時代の城では多く見られます。
軍事ならびに防御の意識が分かりますね~。
これらの2つの策から、徳川家の人間をこの福井の国に入封させたことの重要性、またそこから見えてくる地政学的な重要性が分かってきたのではないでしょうか。
また、このことについては、その前身となる北庄城からも考えることができる。
今後も考えていきたいと思います。
現在の主な遺構は本丸だけですが、本来は日本有数の重要拠点であったのです!
忘れ去られてはいけない、誇りに持つべき巨城なのです!
郷土愛を福井城から探してみませんか?