8/30から「麒麟がくる」も放送再開♪ 【オンライン博物館・後編】福井市歴博の「明智光秀と越前 ー雌伏のときー」をおうちで鑑賞しよう! 【解説動画付き】

8/30から「麒麟がくる」も放送再開♪ 【オンライン博物館・後編】福井市歴博の「明智光秀と越前 ー雌伏のときー」をおうちで鑑賞しよう! 【解説動画付き】

こんにちは、ふーぽ編集部です。

いよいよ今週末、2020年8月30日(日)から大河ドラマ「麒麟がくる」の放送が再開されますね~!

 

前編に引き続き、福井市立郷土歴史博物館で開催されていた、

春季特別展明智光秀と越前 ー雌伏のときー(令和2年3月20日~4月3日開催済)の内容をもとに、

明智光秀は越前の地と一体どのような関わりがあったのかを紐解くオンラインギャラリーツアーへ、みなさんをご案内します!

企画展担当者の解説動画もお見逃しなく。

では今回も、いざ、出陣~!

福井市立郷土歴史博物館とは
福井市宝永にある古代から近代に至る福井の歴史を学べる博物館。【⇒詳細はこちらから
福井藩主・越前松平家を中心とした福井藩の関係資料、市内の古墳から出土した考古資料などを展示しています。

常設展示室では、古代から近代にいたる福井の歴史を、「ふくいのあゆみ」「古代のふくい」「城下町と近代都市」「幕末維新の人物」の4つのテーマに基づき、分かりやすく紹介。松平家資料展示室では、年6回程度の企画展を開催し、福井藩主松平家伝来の歴史資料や美術品をテーマごとに展示しています。また、屋外展示として江戸時代の福井城の門「舎人門(とねりもん)」と外堀が復元され、江戸時代の雰囲気を体感することもできます。

 

 

第3章 織田信長の家臣として ~飛躍のとき~

朝倉氏のもとを去り、しばらく足利義昭と織田信長に両属したあと、二人の関係が悪化すると、光秀は信長の家臣となります

光秀の活躍は目覚しく、京の代官を始め近江や丹波に領地を与えられるなど、新参者ながら、短期間のうちに重臣クラスにまで登りつめました

信長のもとでは諸国統一のため、各地を転戦しましたが、その中には、かつて暮らした越前の平定も含まれていました

この信長と光秀の関係はもとを辿れば、光秀が越前にいたことから始まるのであり、それがなければ本能寺の変も起こらなかったかもしれません

ここ越前は、彼の活躍が始まり、大きな歴史が動きはじめた場所といえるでしょう。

朝倉記 福井市立郷土歴史博物館蔵

 信長による朝倉攻めの様子が書かれた書物 

越前朝倉氏の興亡を記した軍記物語は『朝倉始末記』に代表されますが、本書を始め『越州軍記』等、多くの類似本、異本が伝来しています。

それらも含め、光秀が朝倉氏のもとにいたという記述はありません

織田信長は、元亀元(1570)年から朝倉氏の攻略を開始し、途中、浅井長政の裏切りにより窮地に追い込まれることもありましたが、優勢に戦いを進めていきました。

本書に記載はありませんが、光秀もこの戦いに加わっていたと考えられています

展示部分では、柴田勝家や光秀ら信長の家臣を、中国・前漢建国の功臣である樊噲(はんかい)、張良(ちょうりょう)になぞらえ、有能な家臣であると評しています

一乗谷朝倉氏遺跡出土遺物 福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館蔵

 一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査で見つかった遺物 

町屋地区の屋敷跡から出土した糸車(糸を紡ぐ道具)で、焼けた跡がみられます。

天正元(1573)年の信長の浅井氏攻めに対し、同盟者である義景は自ら軍を率いて応援に向かいますが、8月13日の刀根坂の戦い(敦賀市)で主だった武将を失い、朝倉勢は総崩れとなりました。

同18日に一乗谷に入った信長勢は町を焼払い、三日三晩燃え続けたといわれます。

一乗谷朝倉氏遺跡の発掘調査では、朝倉氏滅亡時の層で、焼けた土が一面に広がっていることが確認でき、町の炎上が事実であったことを物語っています

 

第4章 本能寺の変 ~そして、最期のとき~

天正10(1582)年は信長の統一事業が飛躍的に進展した年でした。

最大の脅威であった武田氏を滅ぼし、軍を毛利氏などの残る勢力に振り向けることができるようになり、諸国統一は時間の問題となっていました。

しかし、天正5(1577)年には松永久秀が、翌年には荒木村重といった信頼していた家臣が反旗を翻すなど、盤石と思われていた信長政権にも、ほころびが見え始めていました

そのような状況の中、信長のもとに中国地方の毛利氏攻めで苦戦している羽柴秀吉から援軍要請があり、彼自ら軍を率いて援軍に向かうことを決定します。

光秀も、その援軍に加わるよう命を受け、準備のため5月下旬に領地の亀山に向かいました

しかし、6月2日、突如自軍の行き先を信長の宿所である本能寺に変え、主君を自害に追い込むのでした。

日本外史 巻之十四 福井市立郷土歴史博物館蔵

 江戸後期の儒者・歴史家、頼山陽が文政10(1827)年に発表した歴史書 

源平二氏の時代から徳川氏までの武家の攻防を武家ごとに記しています。

明智光秀が本能寺に向かう際、家臣の前で言ったとされる「敵は本能寺にあり」という言葉は、この本の記述が元という説もあります。

実際に言ったかどうかは定かではありません。

国史画帖大和桜(明智光秀小栗栖之図) 福井市立郷土歴史博物館蔵

 光秀が落武者狩りの農民に討たれる様子を描いた絵 

本能寺の変後、秀吉は交戦中だった毛利氏と講和し、“中国大返し”を敢行し光秀と山崎(京都府大山崎町)で対決しました。

6月13日朝に戦闘が始まりましたが、勢力に劣る光秀は敗北し、坂本を目指して逃れる途中、小栗栖(京都市伏見区)の竹藪で落武者狩りの農民により討たれたとされます。

 

エピローグ 光秀に翻弄された男たち ~越前ゆかりの武将~

織田信長と明智光秀の家臣だった武将の中には、本能寺の変後、越前国内の領主になるなど、越前に深く関わった人たちがいます

彼らの本能寺の変直後の状況や、その後の動向を紹介します。

国史画帖大和桜(秀吉と四方田) 福井市立郷土歴史博物館蔵

 秀吉を追う光秀の家臣・四王天を描いた絵 

四王天又兵衛政実は丹波国(京都府北部)出身で光秀に仕え、本能寺の変では信長の側近、森蘭丸(乱丸)を討ち取ったといわれています。

明智氏滅亡後は各地を転々とした後、紀伊国湯浅(和歌山県湯浅町)で身を隠していましたが、旧友であった領主青木秀以(重吉)に100石で召し抱えられました。

その後、秀以の越前北庄移封に随伴し、1,000石を与えられ、舟橋の管理を任せられました

 

柴田勝家像 柴田勝次郎氏蔵、福井市立郷土歴史博物館寄託

 北庄城を築いた柴田勝家の肖像画 

初めは信長の弟・信行に仕えましたが、信長配下に転じ、家臣団の筆頭として政権を支えました

光秀とは浅井・朝倉攻め、越前一向一揆攻めなど、多くの戦場へ共に出陣しています。

天正3(1575)年に越前を与えられ、北庄城を築きました

本能寺の変時には北陸方面で上杉景勝と対峙していたため、弔い合戦に参戦できませんでした

 

丹羽長秀墓 総光寺

柴田勝家の後に北庄城主となった丹羽長秀の墓 

長秀は尾張出身の武将で、若年より信長に仕え、勝家らと並ぶ重臣となりました。

安土城普請の総奉行を務めるなど政務・軍事面で大きな功績を残し、光秀と共に行動することも多数ありました。

本能寺の変時は、四国攻めを控え堺に陣を置いていましたが、多数の兵が逃亡し混乱に巻き込まれました。

その後、秀吉と合流し山崎の戦いに加わり、秀吉の配下となりました。

天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦い後、勝家の旧領である越前と加賀の一部を与えられました

同13年に越前で病没、総光寺(福井市つくも2丁目)に墓があります

堀秀政像 長慶寺蔵

 信長・秀吉に仕え、最終的に北庄城主となった堀秀政の肖像画 

美濃出身の武将で、若年より織田信長に仕えました

信長の下では側近として事務・外交・軍事面など多方面において活躍

光秀とは紀伊、播磨攻めなどで共に従軍しています。

本能寺の変時は、信長の使いで秀吉の陣におり、山崎の戦いでは秀吉方に加わりました

その後は秀吉に仕え、賤ヶ岳、小牧・長久手、紀州攻め、九州攻めなどの戦に参加しました。

天正13(1585)年に北庄城を与えられました

天正18(1590)年の小田原征伐に参戦していましたが、38歳で陣中にて病没しました。

本像は菩提寺である長慶寺(浄土真宗本願寺派 福井市西木田2丁目)に伝わったもの。

寺では毎年、命日の5月27日には墓前祭が行われています

長谷川秀一像 永昌寺蔵

 秀吉から越前東郷の地を与えられた長谷川秀一の肖像画 

尾張出身で、父とともに信長に仕え、側近として活躍しました。

光秀との関係は明確ではありませんが、秀一を通して信長の命令が伝えられることも多くあったと考えられます

本能寺の変時は、徳川家康・穴山信君に対する京・堺見物の案内役を務めていました

変を知ると、家康の本拠地岡崎までの逃避行に道案内などで協力

その後、秀吉に仕え、天正13(1585)年に越前東郷の地を与えられました

東郷を本拠地として数々の戦いに参加し、秀吉から羽柴・豊臣の姓を与えられています

本像が伝わる永昌寺(曹洞宗 福井市東郷二ヶ町)は文禄2(1593)年に亡くなった秀一の菩提寺で、自身も寺領の寄進を行なっていることから、復興開基とされています。

また、隣接する霊泉寺には秀一の供養塔があります

担当学芸員・白嶋祐司さんによる
「明智光秀と越前 ー雌伏のときー」解説動画【後編】

 

 ★後編まとめ★ 

信長生前時は柴田勝家、秀吉政権になっても、丹羽長秀、堀秀政など、旧織田家臣の中でも重臣クラスの武将が越前を領したことから、いかに越前が重要な地であったかがわかります。

越前ゆかりの武将たちが、光秀に深く関わっていたと考えると、また違った見方ができるのではないでしょうか。


光秀と越前の関係に迫るギャラリーツアー、いかがでしたか?

ふーぽでは福井県内にある光秀ゆかりのスポットをまとめた記事も公開しているので、合わせてお楽しみください!

 

最後に、福井市立郷土歴史博物館での今後一年間の特別展スケジュールもご紹介します。ぜひ足を運んでみてくださいね!

◇令和2年10月12日(土)~11月24日(日)
秋季特別展 北陸の古刀

◇令和3年3月20日(土・祝)~5月5日(水・祝)
春季特別展 グリフィスが見た明治の福井 ~The Mikado’s Empire~

 

\オンライン博物館【前編】はこちら/

【オンライン博物館・前編】福井市歴博の「明智光秀と越前 ー雌伏のときー」をおうちで鑑賞しよう! 【解説動画付き】

※掲載内容に誤りや修正などがありましたら、こちらからご連絡いただけると幸いです。

※本記事の情報は取材時点のものであり、情報の正確性を保証するものではございません。最新情報はお電話等で直接取材先へご確認ください。

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