展覧会の主役である「落葉」は、一見すると写実的に木が描かれた作品に見えます。
しかし、春草が画業の大半で取り組んでいたのは、「線を用いずに絵を描く」「モーロ―とした絵」、あまり写実的では無い作風でした。
春草の20代から30代前半に描いていた「モーロ―体」の絵画から、いかにして「落葉」に至ったのかを見ていくために、今回は「モーロ―体」を読み解いていきたいと思います。
時は明治時代、福井藩出身の両親のもとに生まれた岡倉天心(1863~1913)は、日本の美術を世界に知られた芸術にするべく奮闘していました。
まずは日本に残る古美術を保護し、日本美術を世界に広めることに貢献しました。
有名な著書『東洋の理想』(“The Ideals of the East-with special reference of the art of Japan”)、『日本の目覚め』(“The Awakening of Japan”)、『茶の本』(“The Book of Tea”)は、それぞれ英語で日本の文化を世界に紹介した本として、現在でも世界中で親しまれています。
『茶の本』“The Book of Tea”
そして、現役の画家たちにこれまでの絵画制作とは異なる手法を試み、新しい日本画を作るよう指導していきます。
明治以前の日本画では、墨線で輪郭を描いた後に色を塗っていくという手法が一般的でした。この日本画にとって大切な「線」を考え直すことで、これまでにない日本画を生み出すよう促します。
岡倉覚三(天心)肖像
天心の出した課題は、「線を用いず描く方法はないか」「空気を描く方法はないか」というものでした。
この教えに応えるべく、横山大観(1868~1958)や菱田春草(1874~1911)といった日本美術院の画家たちが研究し、作り出した技法の名称が「モーロ―体」です。
しかし、実は大観や春草たちが「朦朧体」という名前をつけたわけではありません。
菱田春草「夕陽」明治34(1901)年 福井県立美術館所蔵
墨線を用いず、色線や、ぼかしを用いて絵を描く手法は現在では高く評価されていますが、当時の日本画の中では新しすぎて、中々受け入れられませんでした。
そして、「モーロ―とした絵」つまり、よくわからない絵、と批判されました。
この批判の言葉が現在では、この画期的な技法を指す名称「朦朧体」として定着しているのです。
西洋の「印象派」も実は画家たちが名乗ったわけではない名前がはじまりだったという話に少し似ていますね。
菱田春草「温麗・躑躅双鳩」(部分)明治34(1901)年 福井県立美術館所蔵