大河ドラマ「豊臣兄弟!」で注目。柴田勝家VS豊臣兄弟―福井に残るゆかりの地を巡る

大河ドラマ「豊臣兄弟!」で注目。柴田勝家VS豊臣兄弟―福井に残るゆかりの地を巡る

戦国武将・豊臣秀吉の弟である、豊臣秀長

その視点から兄弟の波乱の生涯を描く大河ドラマ「豊臣兄弟!」がスタートしています。

毎週日曜日、楽しみに見ている方も多いのではないでしょうか!

秀吉の先輩であり、ライバルとして描かれるのが、福井にもゆかりの深い柴田勝家

勝家と秀吉の激突をはじめ福井は豊臣兄弟が挑んだ天下統一の分岐点となりました。

大河ドラマをきっかけに、ぜひこの福井にまつわる歴史を知り、登場人物ゆかりのスポットを巡ってみましょう!

\地図はこちら/

【秀吉を天下人に導いた、勝家という偉大な存在】

豊臣兄弟が天下統一を果たす道のりにおいて、大きな分岐点となった二つの出来事がここ福井で起こりました。

一つは 金ヶ崎の退き口 戦国史上でも特に有名なその撤退戦は、秀吉の名を歴史に刻むきっかけとなりました。

もう一つは 織田家筆頭家老 ・ 柴田勝家との決戦です。

勝家と秀吉は早くから不仲だったとの風説がありますが、そうした事実は確認できず、 秀吉は氏を豊臣に改める以前、 柴田勝家と丹羽長秀から一文字ずつ取って「羽柴」と名乗るようになったほど、勝家を尊敬していたことがうかがえます。

しかし本能寺の変後、事態は急変。

織田家の後継争いにおいて秀吉と勝家は激しく対立し、 両雄の衝突は避けられ ぬこととなります。

1583年、賤ケ岳の戦いで勝利した秀吉は、 北庄城で勝家を滅ぼし、天下への階段を駆け上がりました。

勝家という偉大な存在を乗り越えた先に、 秀吉の天下統一の道が開かれたのです。

 

【1】 吉崎御坊跡

吉崎御坊は、1471(文明3)年に浄土真宗本願寺の蓮如によって建てられました。

蓮如がここを本拠として精力的な布教活動を行ったことで、本願寺は、後に羽柴秀吉や柴田勝家をはじめとする織田勢力に対抗しうるほどの一大勢力となりました。

また、京都本願寺から移築した本願寺吉崎別院の念力門は秀吉が寄進したとの伝承があります。

吉崎御坊跡
住所:福井県あわら市吉崎
公式HP

【2】丸岡城

1575(天正3)年の越前一向一揆の鎮圧と越前再平定の後、豊原を与えられた柴田勝豊が、後に平野の丘上に築いた城。

北庄城とともに越前の統治、また加賀の一向一揆や上杉謙信に対する軍事の拠点となりました。

現在の天守は全国に現存する12天守のうちの1つで、重要文化財に指定されています。 

丸岡城
住所:福井県坂井市丸岡町霞町
公式HP

【3】波多野城跡

波多野城跡は鎌倉時代に志比荘地頭として越前に派遣された波多野義重の一族が築いた城郭。

一時期衰退したが戦国時代に朝倉氏と姻戚関係を結び、威勢を取り戻しました。

波多野城は一乗谷の北方を守備するために、大々的に修築され、特徴である畝状竪堀は39条を数え、一乗谷城に次ぐ規模を誇りました。

波多野城跡
住所:福井県永平寺町荒谷・花谷・光明寺
福井の文化財HP

【4】平泉寺白山神社

717(養老元)年、泰澄によって開かれ、戦国時代には48社、36堂、6,000の坊院が建ち並んでいたと伝えられています。

1574(天正2)年、織田信長方と関係のあった平泉寺は一向一揆勢に攻められ全山が焼失しました。

9年後に再興されますが、その時には豊臣秀吉から保護を受けています。

現在、中心部の白山神社境内は緑の美しい苔で覆われ「苔宮」とも呼ばれています。

平泉寺白山神社
住所:福井県勝山市平泉寺町平泉寺
公式HP

【5】 越前大野城、大野城下町

越前大野城は信長に仕えた金森長近が築いた城。賤ケ岳の戦い後、秀吉に降った長近は、引き続き越前大野の統治を任されました。

後に秀吉の茶頭・津田宗及に茶の振る舞いを受けたり、翌年秀吉と共に宗及を訪れた際には、秀吉自ら花を生けたと伝わっています。

近は持ち味の文化力で秀吉の信頼を受けていたことがわかります。

 越前大野城、大野城下町
住所:福井県大野市城町 (越前大野城)、市街地一帯 (大野城下町)
えちぜんおおの観光ガイド

【6】柴田神社(北庄城址)

朝倉氏滅亡後、越前に入国した柴田勝家は、九層の天守閣を持つ北庄城を築き、越前国の中心地として一乗谷からも民家・寺院を移転。

現代に繋がる城下町を作り上げました。

柴田神社は、柴田勝家公を御祭神とする神社であり、江戸時代に柴田期北庄城の天守跡とされた場所に立地。

境内には、柴田勝家公とお市の方、娘の三姉妹の銅像が建っています。

併設する北の庄城址資料館には、北庄城の遺物や鬼瓦、半石半木の奇橋「九十九橋」に使われたという石柱などが保存されています。

柴田神社(北庄城址)
住所:福井県福井市中央
福井県神社庁

【7】西光寺

柴田勝家公とお市の方の菩提寺。

境内には御二方の墓があり、境内参拝自由。

併設する勝家公資料館には勝家公の直筆書状や刀剣などを展示しています。(資料館は要予約。西光寺HPをご覧ください)

西光寺
住所:福井県福井市左内町
公式HP

【8】越前二の宮 劔神社

1800年の歴史を有する越前国の二の宮。

織田信長の祖先は本社の神官で、出身地の地名を取って「織田氏」を名乗ったとされます。

当時、信長は多くの神領を安堵するなど、神社の保護と住民の治安に尽くしています。

本殿は県の指定文化財、梵鐘は国宝、秋に奉納される太鼓芸能「明神ばやし」は、県の無形民俗文化財に指定されています。

越前二の宮 劔神社
住所:福井県越前町織田
公式HP

【9】誠照寺

三門徒教団の誠照寺は、越前を制圧しようとする一向一揆と激しく対立しましたが、越前に再侵攻した織田方について忠節を尽くし、柴田勝家の庇護を得て安泰を誇りました。

しかし、賤ケ岳の戦いの折には勝家側につき、侵攻してきた秀吉軍に焼き討ちされてしまいます。

その後、秀吉や丹羽長秀との関係を修復して安堵状を得た寺は、荒廃に屈せず復興の歩を進めました。

誠照寺
住所:福井県鯖江市本町
公式HP

【10】小丸城跡

織田勢の越前攻めに際し、不破光治、佐々成政、前田利家が府中三人衆として越前を統治した際に築城された城のひとつ。

現在も石垣と堀が残っており、越前における中世城跡の貴重な遺構となっています。

また、前田利家が、府中の一向宗門徒に対して行った一揆討伐の苛烈さを記した文字丸瓦が出土しています。

小丸城跡
住所:福井県越前市五分市町
ふくいドットコム

【11】須波阿湏疑神社

織田勢の越前攻めに際し、不破光治、佐々成政、前田利家が府中三人衆として越前を統治した際に築城された城のひとつ。

現在も石垣と堀が残っており、越前における中世城跡の貴重な遺構となっています。

また、前田利家が、府中の一向宗門徒に対して行った一揆討伐の苛烈さを記した文字丸瓦が出土しています。

須波阿湏疑神社
住所:福井県池田町稲荷
福井県神社庁

【12】木ノ芽峠城跡、木ノ芽峠茶屋

1573(天正元)年、織田信長と朝倉義景との戦い(一乗谷城の戦い)において木ノ芽峠城で戦勝した秀吉が、合戦を終えて木ノ芽峠茶屋(前川家住宅)に休憩のため立ち寄った際、当時の前川家当主が秀吉から拝領した陣中釜が現在も遺されています。

また1583(天正11)年、秀吉が柴田勝家を滅ぼして(北庄城の戦い)大坂へ戻る途中に再び木ノ芽峠茶屋を訪れた際、秀吉から拝領したと伝わる金の茶釜も現存しています。(釜はいずれも非公開)

木ノ芽峠城跡、木ノ芽峠茶屋
住所:福井県南越前町二ツ屋
ふくいドットコム

【豊臣兄弟と深く関わった福井ゆかりの武将たち】

丹羽長秀と丹羽兄弟

丹羽長秀は、織田信長の重臣として厚い信頼を受け、朝倉氏滅亡後の若狭支配を任されました。

本能寺の変の後は羽柴秀吉に従い、山崎の戦いや賤ヶ岳の戦いで活躍。

その功績により、若狭に代わって越前国や加賀国も領することとなり、有力大名へと成長します。

長秀には3人の息子がおり、三男の藤堂高吉は秀吉の弟・秀長、次いで藤堂高虎の養子となりました。

 

一方、長男の長重と次男の長正は、長秀の死後、波乱の生涯を送ることになります。

長重は跡目を継ぎますが、秀吉に次々と領地を取り上げられてしまいます。

丹羽氏の勢力を削ぐための措置だったとも考えられますが、その後、秀吉は長重を加増移封するなど、丹羽氏の存続を気にかけていた様子もうかがえます。

関ヶ原の戦いでは、兄弟はともに西軍に属して敗北。長重は改易されますが、その後奇跡の復活を遂げ、大名に復帰。後に陸奥二本松藩主・丹羽家の祖となります。

一方の長正は豊臣秀頼に仕えた後、大坂の陣直前に大阪城を脱出。福井に戻り、生涯を閉じました。

丹羽兄弟の歩みは、まさに激動の戦国から江戸初期の時代を映し出しています。

【13】金ヶ崎城跡

織田軍は朝倉氏を攻めるため、天筒山城、金ヶ崎城と攻め落としましたが、浅井長政の裏切りにより撤退を余儀なくされました。

この撤退戦が「金ヶ崎の退き口」といわれ、その殿(しんがり)を秀吉が務め、後の天下統一に進むきっかけとなりました。

当時、戦いの舞台となった金ヶ崎城跡のそばには、現在、金崎宮が建っています。

金ヶ崎城跡
住所:福井県敦賀市金ケ崎町

ふくいドットコム

【14】 国吉城址

国吉城は、若狭国東部の「佐柿」にあり、戦国時代は若狭国と越前国の国境を守る「境目の城」でした。

『国吉籠城記』には、1570(元亀元)年4月に秀吉が入城したことが記されています。

また、佐柿出身の研究者が古老から聞いた話では、本丸に大きな平石があり、織田信長に従って秀吉が国吉城を訪れた折、随行した徳川家康と囲碁に興じたといわれています。

国吉城址
住所:福井県美浜町佐柿
公式HP

【15】熊川宿

熊川の地は、古くから若狭から京都を結ぶ重要な宿場。

秀吉による小田原討伐の前年、1589(天正17)年には秀吉の相婿で若狭国守の浅野長吉(長政)が、交通・軍事の要衝として熊川に対し諸役免除の布告を発し、この地の発展を図りました。

熊川宿
住所:福井県若狭町熊川
公式HP

【16】後瀬山城跡

後瀬山城は若狭武田氏の居城でしたが、1573(天正元)年、織田、豊臣政権初期を支えた丹羽長秀が若狭を拝領すると、大規模な城郭の再整備が行われます。

その後も豊臣家の重臣・浅野長吉、木下勝俊が城主を務めたことから、この地は日本海側の京都に最も近い外港として、極めて重要な拠点であったことが分かります。

後瀬山城跡
住所:福井県小浜市伏原
小浜市公式観光サイト

【17】おおい町名田庄

1582(天正10)年、織田家当主は京暦と三島暦の正確性について土御門久脩を呼び会議を行いました。

その後の1593(文禄元)年、久脩は豊臣秀次の切腹の巻き添えのようなかたちで秀吉の怒りにふれ、尾張国に配流されます。

この後おそらく1600年頃まで名田庄地域に邸宅があったと考えられます。(参考:大閣秀吉と陰陽道闕職 木場明志1985)

おおい町名田庄
住所:福井県おおい町名田庄納田終(のたおい)
おおい町立郷土資料館

【18】高浜城跡

高浜城は逸見昌経が築城し、後に若狭国を治めた丹羽長秀の下で1581(天正9)年、溝口秀勝が高浜城主となりました。

本能寺の変後、秀吉と勝家が対立する中、秀吉の命令で長秀は秀勝をはじめとする若狭衆に北国通路に近い江州海津を押さえさせています。

現在は城山公園として遊歩道などが整備されています。

高浜城跡
住所:福井県高浜町事代城山
公式HP

【柴田勝家後の越前・若狭の領主たち】

めまぐるしく入れ替わる領主たち

勝家の死後、 秀吉の勢力が広がっていきます。

北庄城のあとには、賤ヶ岳の戦いで秀吉に味方した丹羽長秀が入りその後も堀秀政・秀治父子、 小早川秀秋、 青木一矩など、 領主が次々と交代しました。

敦賀には秀吉子飼いの大谷吉継が入り、 敦賀城を完成させるとともに、 敦湊の繁栄をもたらしました。

若狭については、 丹羽長秀 ・ 長重の後、秀吉は身内の浅野長吉、 木下勝俊などを配置し、支配を強化しました。

こうした動きからは、 秀吉が越前 ・ 若狭を日本海流通の要として重視していた様子がうかがえます。

 


いかがでしたか?

柴田勝家や豊臣兄弟、そしてその時代に生きた越前・若狭ゆかりの武将たちに関するスポットが福井県内にこんなにあるんですね。

また、上記のスポットをまとめたリーフレットも福井県内各地で配布中!

リーフレットでは、「知られざる柴田勝家の魅力」や、ドラマにも登場している丹羽長秀と越前・若狭の関係など、様々なエピソードも紹介しています。

 

\画像クリックで拡大/

 

県内では、ドラマの放送に合わせたのぼり旗などもチラホラ見かけます。

おでかけの際は目印にしながら、リーフレットと共にぜひ各スポットを回ってみてくださいね♪

 

※掲載内容に誤りや修正などがありましたら、こちらからご連絡いただけると幸いです。

※本記事の情報は取材時点のものであり、情報の正確性を保証するものではございません。最新情報はお電話等で直接取材先へご確認ください。

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